昭和44年8月31日 夜の御理解
昨日、今日にわたって、串原の久留米教会で筑水地区の教会、23ヶ所の教会が合同で、信心実習、一夜実習会が開かれております。23ヶ所の教会から、90名からの人が集まって、えー、丁度昨日と今日、二日間はみっちりまぁ信心の研修を、まぁされたということでございますが。
今日皆帰って見えてから、まぁここなら本当、いうなら熱意が有っておかげを受けた、ということを聞かせて頂いて、模様をまぁ聞かせて頂いたんですけれども。いわゆる信心の一番苦がいっておるというか、信心、年齢的にいうて、その、皆その何処もおじいさん、おばあさんが多いちいうんですね、その出て来ておられるのに。
ところが、今度合楽は、あー、大体菊栄会が中心でしたから、まぁ35から44、5才までぐらいの、(地区?)ここの言わば中堅層の方達が、ちょうど18名申し込んでおって、3名出来なかったちゅうから、15名おかげ頂いた。
90名の中からやはり15名、勿論出席の、人数からいうても、何処でも断然合楽が多いかったらしい。同時に合楽の場合にはもうその、なんちゅうかね、信心のその現役といったような人達があの、参加しておったことが、まぁ皆の注目を引いたというようなことを言っております。
同時に、最後に、「いわだ」さんのお話があったそうですけれど。「ひろ」さんの話の中に、合楽の先生はこう言われるというようなことを言われて。合楽の先生は、この真の信心をさせてもらうなら、真の修行をしなければということ言われる。ということをその、話されたという事ですけれど。もうそりゃ勿論そうですね。真の信心を頂くためには、やはり真の修行。
そかから、初めて今日はあの、何ていうですか。あの特別奉修委員の方達が頂いた御理解のように、それこそ神様がのしを付けて下さるようなおかげ。どうぞお願いします、頼みますというてから頂くおかげじゃなくて、神様がのしを付けて下さるようなおかげ。
そういう、そのおかげが頂けれる。真の信心には、だから真のおかげが受けられる。ためには、真の修行もしなければならんという事ですけれども。ならその、んなら真の修行とはと、こう正面きって、その言うて見るとです、なかなかその真の修行ということが、なかなかどういう信心修行させてもろうたら、真の修行かということが、実に、まぁ難しいことになるのですけれども。
ね、私は合楽の場合は、本当にその、勿論真の信心を言う前に、その真の修行と。ということをまぁ朝晩説き続けておりますから、ね、まぁいうそのうちの第一なんかは、いわゆる成り行きを大切にするといったような。その氏子、氏子、その人間一人ひとりの上にです、天地の親神様が求めたもう修行、ことこそ、真の修行だと私は思うんです。
その真の修行から避けよう、それを受けまいとする、といったような、私信心では駄目だと。一人ひとりに求めたもう、神様の成り行きにの中に現れてくる、銘々への修行をです、そこに見事にいわば合掌して受けてみていこうという修行。
もう正しくこれが、まぁ真の修行だと。勿論他にも色々ございましょう。けどもその、真の信心、真の修行、その真の修行の中心をいくもの、というようなところを合楽では頂いておりますから、ここんところをいよいよ本気で頂きぬかせて頂いて、ね、一つ真のおかげを頂かせてもろうて、なるほど合楽で合楽の先生が真の信心、そして真の修行、そして真のおかげを信者の一人ひとりが頂かせてもらった時に、初めて合楽の信心がもの申すことになるのじゃなかろうかとこう思うのですね。
今日の、奉修委員の時の御理解でしたけども、合楽の人達はそこを分かっておる。成り行きを大切にせねばならんということを。けれどもそれをその、本当の、その思い込みというかね、例えば神様の前に、例えば今日あたり、例えば二日間、しかもあのちゅ、例えば一例をいうならば、永瀬さんなんかは、もう土曜と日曜といやもうかけがいの無い日なんですね。
勤めというだけじゃなくて、あれだけのお百姓をしておられますし、あれだけの柿畑がありますから、もう柿畑だけでも土曜と日曜が、もう柿畑が楽しみ、からか、まぁ(たけ?)の方が楽しんで待っとるとですよね、いうなら、その手入れを。
ですからもうどうしても、永瀬さんは土曜日曜だけは外されんち言うぐらいに、大体ありなさるとですけれども、そこんところをですね、こう完然と神様の前にお供えしきって、二日間、いわば、信心の修行にまたは御用に打ち込んでおられるわけなんです。
ですから今日いった15名のその一人ひとりがやはりそれなんです。どの一人をみましても、とりわけ商売人ばかりですから、今日の月末31日の日というのは大変な大事な日なんです。
先ほど文男さんやら高橋さんな一緒に帰りましたが。もう今日という日は最後の、いわば締めくくりをする日ですから、商売人にとっては非常に大事な日だけれども、それを例えば、信心の修行の上に当てておるとこういうことなんですね。
だからそういうようなものをです、合楽の人達は大体持っておるんです。もうそういう時に、ハイというて、素直に神様任せになっていかねばならんことを、大体にそれを分かっておるんだけれどもです、教祖の(昼、じゃない、とうげ通し?)の時頂きますように、こう結びのしてある。人を結んであるのしのようなもんですから、何かにちょっとこうちょくめんささ、つつかれるとそれがポロッとこうほどけるといったような信心。
ね、ですから本当ののしになっていない。ね。神様の前にのしをつけた生き方というものに、なっておるようであってなっていないのが、合楽の皆さんの信心の姿じゃなかろうか。そこにやはり神様がのしをつけて下さるようなおかげになってこないとじゃないだろうか。
そこんところの、例えば思い込みというか、やってのけるというか、私が、例えば合楽、椛目が始ってから4年半というものは、もうそれこそ、成り行きというよりも、私の上に起きて来る一切の事柄を、もうそりゃ受けられんということはなかった。みんなそれを受けて来た。それも受けると決めとるもんですから、もうそれは一つも苦痛を感じんなりに受け抜いてきた。
そういう事がです、私はあの、合楽の成り行きを大切にするといったような信心が生まれたんだとこう思うんですけれども、ね、そこから神様が私共は神様の前にのしをかける。ですから神様も又私共にのしをかけて下さるような、おかげが現れておるんだとこう思うです。
ですから合楽の信心、信奉者の一人ひとりが、そういうおかげを受けた時です、ね合楽の先生が、真の信心、真の信心というけれど、真の信心には真の修行がいるんだというておられると、まぁいわれたというんですけれど、それからもう一つ、なるほど合楽で真の信心といわれりゃ、真の修行を求められる。真の修行を受けていかなければ真の信心にならんといわれておる。
だから合楽の信心を見て見れ、あれこそ真のおかげであろうというおかげを皆が表しておるではないかと、いうようなおかげを受けた時にです、合楽の信心が又、見直されるおかげ。
もうそりゃ合楽の信心を見直してもらうとか、もらわんとかということじゃないけれど。これは私の信念です、合楽の信心が本当にまかり通るという時代がこなければ、金光教の信心は本当じゃない。と私は確信するからなんです。
ためには、やはり真の修行を銘々がです、させてもらって、真のおかげを銘々が頂かなければならんということになるのです。どうぞ。
梶原 佳行